私たち、蓮田囃子保存会が継承しているのが、上平野のお囃子です。
上平野の囃子の歴史など、分かったことを書いていきたいと思います。
蓮田市 上平野の祭り囃子
蓮田市 上平野の囃子については、古囃子(ヒネッパヤシ)と新囃子を行っていました。
古囃子に関しては、古くから行われていて、上尾や桶川、北本などでも行われていたというのが残っています。
蓮田の資料などを見ると、上平野の古囃子はヒネッパヤシと言われ、小田原系のお囃子という事が伝わっていて、実際に小田原囃子を聞くと、笛の音が小田原囃子の節などが入っていて、小田原囃子の系統というのが伺えます。
新囃子に関しては、大宮の遊馬から遊馬屋流を伝承して、大正時代には上尾の菅谷からとう資料も残っています。
駒崎では、オイバナという行事を行っていて、オイバナでは神楽師を呼んで神楽を披露していました。
神楽師は、上尾市の西門前、沖の上(現在の浅間台)、桶川市の下日出谷から神楽師の親方がいて昭和40年代まで盛んに活動をしていたようです。
駒崎のオイバナでは、上尾市西門前の神楽師の親方の下に上平野の神楽師も参加していたようです。
上平野は、祭り囃子の他に神楽も行っていて、様々な場所に呼ばれていた事が伺えます。
※埼玉県の資料では、新囃子の東屋流という表記は恐らく遊馬屋流(アスマヤ流)の事だと考えられます。
※大正時代に菅谷から新囃子を習ったというのは、隣の西門前の神楽だった可能性もあります。
ヒネッパヤシという呼び方について
上平野では、古囃子(フルッパヤシ)の事をヒネッパヤシと呼びます。
上平野の方に聞いた話によると、ヒネッパヤシのヒネは「古い」を意味するようです。
最近は、使わなくなりましたが、古い米を「ヒネ米」と言っていたので、
「ヒネ」=「古い」という意味で、古囃子を「ヒネッパヤシ」と呼んでいたようです。
ひねとは
- 古くなること。また、そのもの。
- 前年以前に収穫した穀物や野菜、米
- 老成していること。ませていること。また、その人。
なぜ上平野に古囃子が残っていたか?
上尾や桶川などの資料を見ると、古囃子を演奏していて新囃子に変わったというのを目にします。
もっとも、多く影響を与えている新囃子の木ノ下流や堤崎流は、指扇付近から広まっているお囃子です。
蓮田の隣町の伊奈町は、新囃子で上尾方面から伝承したようで、蓮田の人たちは「足立(足立郡)は新囃子で、こっちはフルッパヤシだ」という認識があったようです。
蓮田でも、新囃子を伝承したが、古囃子が残った理由の一つとして、上平野の囃子連が近隣の町のお祭りに呼ばれ山車に乗っていた事があげられます。
久喜市の提灯祭りでは山車と山車をぶつけ合う程の激しい祭りで、上平野のはやテンポの古囃子が調子よかったようです。
提灯祭りで新囃子を演奏していると、棒で突かれて「フルッパヤシを演奏しろ」と言われていたようです。
もう一つは、物流や人の流れが変わった事によると考えています。
というのも、上平野は隣の白岡市柴山とを挟んで見沼代用水が流れています。
その見沼代用水は、元荒川とぶつかる為、見沼代用水を元荒川のしたを通る伏越しというものが設けられています。
そのため、どうしても船は上平野の付近で止まり、物資などが積み替えられ上尾や桶川、菖蒲などに運ばれたようです。
その事から、伏越の付近には伏越を工事する人や荷物を運ぶ人などで、賑わっていたようで商売人も多くとても栄えていて、付近の神社では賑やかなお祭りが盛んに行われていた様子が伺えます。
実際に明治10年頃には、上平野でも人形山車を作成したという記録があります。
山車があれば当然、お囃子も演奏されていて、神社には夜店が立ち並んでいたそうです。
ただ、明治に入り鉄道が蓮田にも通り人や物流が変わってしまい、見沼代用水の通船が無くなってしまいました。
その為、上平野では新囃子に変わることなく、古囃子が残った理由と考えられます。
古囃子に似たお囃子が小川町や江南町(現 熊谷市)、嵐山町、小前田(現 深谷市)、寄居町、入間市、飯能市などに見られますが、いづれも通船から鉄道による人や物流が変わってガラパゴス状態になり、新囃子に変わらずに今も古お囃子が演奏されているかと思われます。
上平野流というヒネッパヤシについて
埼玉には、小田原とつく流派は小田原若狭流があります。
上平野のお囃子も小田原囃子の系統というのが分かっていますが、若狭流とは違うようです。
細かい事を言うと、上平野は打ち出しの部分が少し違います。
小田原囃子を含む隣の井沼などは、「テレン天 テレン天」と始まりますが、上平野では「スケ天天 スケ天天」と入ります。
スケ天天の「ス」は抜きバチや擦りバチで叩くので聞こえ方は変わらないように思えますが、間などが違ってくると思います。
こうして、上平野流は細かい所で、変わってくるジゴトになっています。
これは恐らく、山車と山車がぶつかったり、ヒッカセなどが影響してテンポの早い囃子に変わっていったのだと考えられます。
実際に聞いても、上平野お囃子はテンポが良く、祭りの気分も上がっていきます。
地の部分の抜きバチと言われる叩き方について
時より地に関して、抜きバチという言葉を耳にします。
まず、蓮田市でも上平野と井沼では地の叩き方が違います。
基本では、上平野だと13打、井沼だと12打で地を叩きます。
井沼では、初めのスケを1打で打ち、そのスケも擦りバチのように叩くと言われます。
そのスケの部分で、スを叩かない事により、自然と抜きバチになります。
久喜市もで、各町内をみていくとスケを1打で打つ所を目にします。
なぜ、そのような叩き方が広まったか?
一つは、蓮田の上平野の親方などより、世代が若い井沼が上平野が山車に乗らなくなってからも、井沼の囃子連が山車に乗っていたのが理由だと思います。
実際に、新一に乗っていた井沼の囃子連は、前夜に久喜に泊まり久喜の人たちにお囃子を教えていたそうです。
そういった理由で、スケで1打叩くという叩き方が広まったのだと思います。
ただ、上平野は抜きバチをしないか?といと上平野でも抜きバチはやっていたようでが、井沼の間とは少し違います。
地に入れるチャリについて
上平野では、地の部分にチャリというもを入れたりします。
これは、地を3回叩いて2回チャリを入れたりするというもので、事前に回数を決めて隣の人と一緒に叩くというものです。
実際にチャリを入れると、地にメリハリがついて調子の良いお囃子になります。
井沼では、カザリと言っていて、二人でツケを叩く際に一人が3回叩いてもう一人が2回目から一緒に叩くという叩き方をします。
これは、上平野のチャリと違って事前の打ち合わせはいりません。
右の人が叩けば左の人も合わせて叩く、左の人が始めれば右の人が合わせるという感じになります。
乱拍子と大切りについて
上平野では、打ち出し、地、切り、乱拍子、キザミ、ブッキリとありますが、井沼だと、打ち出し、地、小切り、大切り、キザミ、ブッキリとなり、井沼では、切りを小切り、乱拍子を大切りと呼びます。
上平野の祭り囃子の伝承先について
上平野の祭り囃子の伝承先については、下記の通りです。
- 久喜市 江面
- 久喜市 新二
- 久喜市 本三
- 久喜市 清久東
- 白岡市 岡泉
- 杉戸町 茨島
資料や情報を元にまとめてみました。
- 久喜市 江面については、明確な時期は分かりませんが、昭和初期ことだと思われます。
- 久喜市 新二と本三は、昭和40年代~50年代ころのようで、新二、本三の人たちは上平野まで行って習ってきたそうです。
- 久喜市 清久東は大正時代との事ですが、久喜市内より伝承し直されています。
- 白岡市 岡泉は、上平野の人の養子先が岡泉で、元々あったお囃子に上平野のお囃子が加わったようです。ただ、現在は上平野の祭ばやしではなく、菁莪囃子連より習い直したお囃子を演奏しています。
- 杉戸町 茨島も、上平野の人が茨島へ行き始まったと言う事を上平野の親方が言っていたそうです。茨島は、古い神楽があるので道具は揃っていたので、祭ばやしがやりやすかったと思います。茨島は地と切りのみになります。
久喜市の中村氏について
久喜市に新一の中村氏という方がおられました。
中村氏は、新一に所属していたこともあり、新一の山車に乗っていた井沼にも顔をだしていたようです。
中村氏は、今の久喜市のお囃子の一世代前の方で、どこからお囃子を習得したかは定かではありませんが、系統は上平野のお囃子のようです。
久喜の町内の囃子連とは別に、有志を募って囃子連を組んでいたようです。
太鼓も自前で揃えていたようで、皮の選別や作成まで依頼して、こだわっていたようです。
その中村氏が教えた地域として、幸手の久喜町、幸手市 北町、白岡市 菁莪囃子連、笛を杉戸市 茨島囃子連へ伝えています。
後に、白岡市 菁莪囃子連は、白岡市 柴山、白岡市 岡泉、白岡市 八幡神社、白岡市 高岩などに伝えています。
ほぼ、上平野と同じお囃子ですが、若干叩き方が違った箇所も見られます。
そして、白岡市 菁莪囃子連では、古囃子やフルッパヤシなどとは言わず、破矢(ハヤ)と呼んでいます。
このハヤは、祭囃子の中で屋台囃子のことを言い、都内でも屋台囃子ではなくハヤと呼んでいる流派は多くあります。
この破矢は、早矢やハヤなどとも書かれ、ハヤシのハヤを取ったという説や早く矢を射るという説、破るように矢を射るという説。
いずれも、早く荒々しい戦いの曲のような意味合いのようです。
ただ、この辺では破矢という言い方をしないので、破矢という名前を当てた可能性もあるように思います。
権八流(権派流)について
加須市の加須武州囃子や鷲宮の囃子、久喜市 清久の一部で権八流(権派流)という流派が存在します。
この権八流(権派流)は、田島権八という太鼓の名人が幸手方面から習得したお囃子のようです。
幸手方面というと幸手 荒宿や久喜町、仲町、天神町、東町、北町、助町があります。
幸手のお囃子を拝見させて頂いた時に、ジゴトを「タカタン」と表記して習っていたのを拝見しました。
「タカタン」というと清久東のお囃子も「タカタン」というジゴトで稽古していました。
幸手市の荒宿で話を伺った時に、「昔にお金を払って、清久から囃子を習った」いう事を聞きいたので、「タカタン」というジゴトで継承しているのも理解できました。
そして、加須の囃子をみても「タカタン」というジゴトを目にすることから、流れが見えてきます。
まとめ
まだまだ、書きたい事はあるのですが、徐々に書いていきたいと思います。